阿波勝哉(東京): 時代と伝説を作った稀代のアウト屋

阿波勝哉は東京支部に所属をするボートレーサー。

6コースからでも全員を飲み込み勝ち切るスタイルで全盛期にはSGでも活躍をしていました。

アウト屋となった理由、数々の伝説、そして新たな道へ・・・個性派人気レーサーのこれまでを振り返っていきます。

阿波勝哉
これまで

選手情報

阿波勝哉 写真

支部
東京79

ボートレーサーになるまで

東京都練馬区出身。武蔵丘高校を卒業後は特にやりたいこともなければ目標も無く20歳までフリーター生活を続けていました。

この頃に中学時代の友人からボートレーサーになったらいいのではないか?と言われたことを不意に思い出し養成所試験を受け始め3度目で合格。79期生として本栖養成所への入所を果たしました。

このアドバイスを送った友人は身長制限に引っかかってしまいボートレーサーになることを断念。

阿波勝哉は友人の思いも背負ってその第一歩を踏み出すことになりました。

養成所時代

79期は吉川元浩、後に自身と同じアウト屋へ転身をすることになる澤大介などを輩出。

元々ボートレーサーになることを目標にしていたわけでなかった阿波勝哉は細かいルール、競技の根本的な部分を一切知らないまま養成所生活が始まったことこそ後のアウト屋というレーススタイルを生み出す礎になりました。

デビュー3年目に決意

1996年にボートレース多摩川でデビュー。新人レーサーは暗黙のルールにより大外からのレースを行うことが決められているためそれに従いレースを繰り返していました。

デビューから3年目を迎え、スロー域に入ることが許され始めるようになりましたが、その中で阿波勝哉はあえて6コースからレースを続けるアウト屋となることを決断。

この当時からアウト屋として活躍していた小川晃司、元祖アウト屋と言われている吉岡修のように大外から勝ち切ることがカッコよい、真似をしたいという気持ちもこれらのレーススタイルへの好奇心を生み出しました。

初優勝

2002年にボートレース蒲郡で初優勝を達成。

意外にも初優勝は6コースからの「差し」であり、これは阿波勝哉の全19回の優勝の中でも2回しかない非常に珍しい決まり手でした(もう1回の差し切り優勝は2007年)

この間には1999年にF3で半年間の休みを強いられ建築会社の日雇いアルバイトとして日給1万円で全国各地を転々とする苦労を重ねており、自分のレーススタイルがようやく認められる1つのきっかけともなりました。

なおこの翌年にも再びF3で長期休養を経験。

6コースから勝利をするためにはギリギリのスタートが要求されフライング問題には常に苦しめられています。

SG出場・6コースから9連勝

2004年は年間13度の優出、5度の優勝を達成し翌2005年にはファン投票にて選出される笹川賞(現ボートレースオールスター)でSG初出場を達成。

この年の4月にはボートレース芦屋の周年記念レース全日本王座決定戦でG1初優出(結果は6着)と記念戦線でも活躍をする場が増えて行きました。

そして2008年にはボートレース丸亀の一般戦にて初日から全て6コーススタートで9連勝を達成。

完全優勝、シリーズリーダーがかかった準優勝戦の12Rでも1枠ながら当然6コースに入り残念ながら5着に敗れ優勝戦を逃してしまいましたが、最終日にも1勝を決め6日間で10勝をマークしました。

2005年には6コースからの1着率が40%を超え唯一無二のレーススタイル、存在として君臨しました。

既定の変更で苦しむ

これらの活躍、知名度の高さを誇る選手ながら優勝は全て一般戦によるもの、そして最後の優勝は2012年以降遠ざかっています。

この背景には安全面を考慮し消音エンジンへの変更が行われたこと、そして個人所有だったプロペラがボートレース場の管理へ変更されたことが影響をしています。

特に持ちペラ制度時代には休みの日にプロペラを満足が行くまで叩き続け究極の伸びを生み出していた阿波勝哉にとってこの規定変更は致命的となり成績は大きく低迷。

プロペラの大きさ変更、ナカシマ型のプロペラの使用が廃止されヤマト型に統一されたことも災いしこれ以降はキャリアの大半がB級の選手に低迷。「持ちペラ制度のあおりを最も受けた選手」として真っ先に名前が挙がっています。

※ナカシマ型のプロペラは2011年の東日本大震災の影響でプロペラ素材の十分な確保が困難になったため事業を徹底しました

試行錯誤

どれだけ成績が悪くなったとしてもアウト屋を貫き続けた阿波勝哉。

単にチルトを跳ねたピンかパーのレースだけではなくチルトの角度を下げて道中で戦うかつてのアウト屋のようなレーススタイルを行うなど試行錯誤を繰り返しました。

澤大介 写真

この頃には長きに渡りともにアウト屋として活躍した同期の澤大介がアウト屋の卒業を決断。

アウト屋になった当初はプロペラ作りのノウハウやレースの仕方がわからず苦悩をしていた澤大介に対して自身のプロペラをプレゼントし切磋琢磨を繰り返した名友のこの決断を聞いた際には「自分もB級ギリギリでいいレースなんて全く出来ていない状態。辞めるなって言えなかったです」と語っており、同じレーススタイルだからこそ理解できる同期の決断を後押ししました。

脱アウト屋

2025年9月に自身の口からアウト屋を卒業することを発表。

前期にF3を犯しており大半の期間を休んでいた阿波勝哉は事故点の多さや出走確保のためにはレーススタイルを見直さないといけない時期に差し掛かりこの決断に至りました。

自在屋なレーススタイルに転身するための入念な準備も重ねており、フライング休み中にはボートレース平和島の若手選手に混ざり練習に参加。スロー域からのスタート、レース勘を養っていました。

今まで行ってこなかったピット離れの取り方や、コツがわからず周りの選手達から意見を聞くなど新人レーサーの様な気持ちで新たな戦いが始まりました。

弟子の岡悠平(ボートレース平和島のリポートを担当)は自身のXにて平和島の練習でスローに入る阿波勝哉の姿を発表前に報告。ファンの間でも以前からアウト屋を卒業するのではないか?ということが囁かれていました。

ただし外枠のレースではチルトを跳ねたレースを続けることは示唆しています。

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阿波勝哉
エピソード

師弟関係

師匠

阿波勝哉 師匠

阿波勝哉の師匠は東京支部の本吉正樹。

2024年には平山譲の執筆により自身の半生、体験を基にした「レーサーの家(駒草出版)」が発売され表紙には自身の写真が掲載されています。

持ちペラ制度時代には江戸川巧者として知られる桑原淳一が仕切っていた「TMR技術研究会(とってもまぬけなレーサーズ)」に所属。

TMR技術研究会は基本的なことを教えた後からは各々の考え方を尊重することを方針としており、阿波勝哉の特殊なレーススタイルが受け入れて貰うことが出来た1つの理由となっています。

弟子

阿波勝哉 弟子
上述の既に引退をしている岡悠平以外に東京支部の藤原菜希と師弟関係を結んでいます。

同じTMRのプロペラグループ出身であり、大学生の時まで空手の舞台で世界でも活躍をした阿波勝哉と同様に強気なレーススタイルが売りの女子選手です。

2020年にレース中の極端な減速に対して不正行為の疑いを持たれ12か月間の出場停止処分が下され大きな波紋を呼びました(この年は西川昌希の八百長による逮捕により業界内が非常にピリピリしていた)

極まれにチルト3度でレースをするときもありますが、レースのスタイルというよりは師匠の考え方や精神面を引き継いでいます。

出場停止になった頃に長嶋万記(静岡)が製作した顔がデカデカとデザインされたTシャツは多くの女子選手が愛用。

師匠の阿波勝哉も当然ながら持っており、レース場が着用している姿が何度か目撃されています。

 

阿波勝哉伝説

唯一無二のレーススタイルでファンからの人気を獲得している阿波勝哉。

それゆえの伝説をこれまでいくつも残しておりその一部をここでは紹介していきます。

阿波勝哉伝説①
名物メニュー誕生

ペラ丼

現在ボートレース平和島の名物グルメとなっているペラ丼は阿波勝哉をイメージして誕生。ボートレース界では非常に珍しい選手をモチーフとしたグルメです。

なお自身の愛称である「アワカツ」と「阿波が勝つ」になぞった「アワカツ」というカツサンドがルーツとなっています。

阿波勝哉伝説②
苦情の電話が殺到する

2006年のSG笹川賞の投票用紙に阿波勝哉の名前が無いことに対して多くのファンから運営元に対して苦情の電話や名前が無いことについての連絡が殺到する事態となりました。

実はこの当時の阿波は出走回数不足によりB級へ降格をしており、笹川賞の出走条件であるA1級ではありませんでした。

現在と違いネットでの投票が出来ない事や、選手の等級をスマートフォンやパソコンで調べればすぐにわかる時代ではなかったとはいえファンからの人気の高さ、出場をしてほしいという思いが生み出した伝説となっています。

東京支部のユニットグループ「東京ベイパイレーツ」や「T-SPLASH」にも所属。

現在でもその際に配られた衣装を愛用しています。

阿波勝哉伝説③
アウト屋の定義を根本から変える

当初は単に6コースからレースをする選手でしたが、山口雅司にプロペラのアドバイスを貰ったところ劇的に伸びが生まれ面白さを覚えたことで捲りを意識。

今でこそアウト屋といえばチルトを跳ね上げ捲りを狙うスタイルが一般的とされるも当時は「6コースからの差し」が常識でした。

阿波勝哉の活躍によって定義自体が根本から覆されるようになりその後の多くの選手にも影響を与えました。

アウト屋が複数人いた時代は先輩後輩が同じレースになった際に先輩から順に外に出ていくという暗黙の了解が存在しました。

阿波勝哉伝説④
チルト3度が各地で解禁・4度を検討

阿波勝哉の活躍によってそれまで使う選手がほとんど存在しないため検討をする必要が無かったチルト3度を解禁するボートレース場が続出。

2008年にボートレース丸亀で節間9連勝を飾った際はその解禁節でありこの活躍は大きな宣伝効果をもたらすことになりました。

更にはボートレース多摩川で更なる盛り上がりのためにチルト4度の実験が行われていました。これについては危険性などを理由に白紙となりましたが、阿波勝哉の活躍があったからこそ今のチルト角度の調整が許されているボートレース場が存在しています。

阿波勝哉伝説⑤
不運かつ幻の優勝

2004年8月18日にボートレース平和島で行われた第44回デイリースポーツサマーカップの優勝戦にて6号艇で優勝戦に進出。

当然のように大外にチルトを跳ねて構えていた阿波勝哉は0.09秒のスタートで飛び出すも左を見ると残りの5艇全員がフライングで失格。全艇が引き上げる中3周を完走しゴールインをしましたが、舟券は当然全返還となり、競走不成立となったため規定により優勝賞金も出ず優勝者としても扱って貰えませんでした。

上述でも解説しましたが2004年の優勝回数は4回。勝負駆けの基準とされている5回の優勝にあと一歩及ばず翌年のSGボートレースクラシックへの出走権利を逃しており、「何も良いことが無かった」と後年に悔やんでいます。

しかし見方を変えれば「伸びて来る阿波勝哉に絶対に捲られたくない」という選手達のプライドが招いた事故。

驚異的な存在の選手であった証明となっています。

 

譲れないポリシー

先輩の熊谷直樹は度々自在屋になることを助言。しかし阿波勝哉はその度に「自分はこのスタイルで行く」と断固たる決意を示し続けたことで熊谷直樹もいつしか助言をするのを諦めました。

熊谷直樹からすれば「あのスタイルを辞めないとSG、G1で優勝できないし稼ぐことは出来ない」とその舞台を知るからこその発言でしたが、元々ボートレースの基本を知らないまま養成所に飛び込み唯一無二のレーススタイルを編み出した考案者だからこそ頑固にこだわり続けました。

自分が楽しいと思えるコースでレースが出来る事、それで生活が出来れば良いという生き方のポリシーを持っています。

阿波勝哉
まとめ

ボートレース界最大の個性派として時代を作り、その後は苦しい時代も経験した阿波勝哉。

アウト屋を卒業し自在なレース運びで晩年を過ごすという決断を下しましたが、それは1日でも長く水面を走り続けたいという気持ちの表れでもあります。

形を変えようともファンの期待に応える走りを続けるこれからの走りも是非とも応援していきたいですね。

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