
ボートレーサーというのは原則として全ての人が1からのスタートとなります。ゆえに意外な経歴、職業から転身をしたボートレーサー達が数多く存在しています。 今回は一風変わった経歴、職業を経て現在に至るボートレーサー達を紹介。 東京支部きっての江戸川巧者である渡邉は大学を卒業後に公認会計事務所に就職。いずれは独立を夢見て社会人をスタートしました。 しかし渡邉が入った公認会計事務所は1日の大半が仕事で埋め尽くされるほどの超絶ブラック企業(業界自体もその傾向がある)だったことから「このままでは俺は死ぬ」と危機感を覚え転職を決意。 そこでボートレーサーという職業を知った渡邉は学生時代から様々なスポーツを行ってきた運動神経を活かせると思い養成所試験を受けたところ見事に合格をして現在に至ります。 期も支部も年齢も異なる両者ですが共にロードレースの舞台で活躍という経歴の持ち主。それぞれ別のチームに所属をしており鈴鹿選手権で競い合う関係でした。 谷川が106期の募集より始まった特待生制度(他のスポーツで功績を遺し養成所に優先的に合格できるシステム)を利用して養成所に合格しボートレーサーとしてデビュー。 その後、山崎に対して谷川がボートレースの世界の魅力を伝え追うようにボートレーサーへの転身を決意しました。 その他にも権藤俊光(大阪)、山田亮太(東京)、金児隆太(群馬)などロードレース出身の転身者がいます。 野田の前職は埼玉西武ライオンズに所属したプロ野球選手。プロ野球選手からボートレーサーへの転身は養成所試験挑戦時から大きな話題を呼びました。 プロ野球選手時代には日本代表の舞台も経験する左の中継ぎ投手として1軍の舞台で活躍も怪我や勤続疲労から球速、コントロールが悪化し現役を引退。 再就職を決めるトライアウトというシステムに参加した際に当時現役復帰を目指し話題を呼んでいた後の日本ハムファイターズの監督である新庄剛志と遭遇。その際に「自分の好きなことをやって人生を生きた方がいい」という言葉を受けボートレーサーへの転身を決意しました。 ボートレーサーとしてデビュー後には西武ライオンズの始球式に登場しマウンドに立ちました。 野田がプロ野球選手からの転身に対して尾崎の前職はプロサッカー選手。学生時代からユースチーム(Jリーグ下部組織)に所属し大学卒業後の2008年に当時JFLだったファジアーノ岡山に入団。JFL初年度に27試合、J2に昇格した翌年は23試合に出場をするもわずか2年で戦力外通告を受け退団。 父親の尾崎鉄也(2022年9月引退)の影響もありボートレーサーへの転身を決意し翌年には養成所へ入寮。2012年にボートレーサーとしてデビューをしました。 平成25年に長崎支部の選手達が出演したPR用のCMでは親子が共演。 父親の鉄也が球を蹴る姿を息子の雄二が微笑んでみています。 松本の前職は消防士として消防車に乗る事もあれば兼務だったことから救急車にも乗って4年間過酷な環境で仕事を行っていました。 「もし明日自分の人生にピリオドがうたれるとしたら、後悔しないかな?」と考えた際に救急救命士の資格を取るための専門学校の近くにあったボートレース福岡に通うほど好きだったボートレーサーの道を志し転職を決意しました。 消防士になる際も相当過酷な養成所生活を行った松本でしたが、3度の不合格(養成所試験は半年に1度行われる)を経て4度目の養成所試験で合格するまでに2年の時間を要しました。 岡崎の前職は今と同じく船に関するものでした。しかし船を操縦するのではなく船に乗り任務を全うする海上自衛隊員で戦艦の乗船経験があります。 そんな岡崎がボートレーサーを志したのは2022年に白井英治の優勝で幕を閉じたボートレース大村での開催だったSGグランプリでした。 会場の熱狂、地鳴りのような歓声に衝撃を受けた岡崎は直感でボートレーサーになりたいと決意し転身。その感動から2年後の2024年に選手としてボートレース大村の水面に再び戻ってきました。 重富の前職は下関市の市役所で働く職員でした。 「成績によって稼げてやりがいがあるから」と理由で良くも悪くも安定している公務員という職業を捨て活躍すればするほど稼げるボートレーサーという真逆の人生を歩んでいます。 https://www.boatrace.jp/owpc/pc/site/stadium_info/2018/05/8216/ デビュー時には地元メディアからも注目の選手として特集が組まれています。 青木の前職は東京都の交通網を担う東京メトロ(地下鉄)の駅員。青木は国会議事堂などがある永田町駅で勤務をしていました。 24時間の大半が勤務に充てられる過酷な環境ながら公務員に憧れていた青木にとっては希望に近い職業であり「良い経験をした」、「あれがないと日本が回らない」と駅員時代を語っています。 公務員希望だった青木が突如真逆の世界に飛び込んだ理由については「母親からある日勧められて興味を持った」と様々な媒体で語っていますが、駅員として働いている息子に対して他の職業を勧めるのは話の流れに違和感があります。 「東京メトロを退社してその後の職業を探す中での選択肢の1つだった」、「過酷な環境からの脱却を考えた際に勧められた」 このような経緯からボートレーサーとしての現在があるのではないか?と私は推測をしています。 ボートレースと無縁の北海道で生まれた三浦の前職はピアノ調律師。 3歳の頃からピアノ教室に通い高校卒業後に好きな音楽にまつわる仕事に就いた三浦でしたが、あまり得意ではなかった営業関連の業務も兼任する中で将来への不安、迷いが生じるようになりました。 ある日、友人と共にボートレース平和島へ遊びに行った際、その迫力と情熱に心を奪われた三浦は「ボートレーサーになりたい」と決意し22歳で脱サラ。 ピアノの微妙な音の変化を修正する仕事に就けるだけの手先の器用さはレーサーに必要なプロペラやエンジンの整備にも生かされ遅咲きの選手ながらわずか3年でA級に昇格することが出来ました。 6期下の三浦裕貴は実の弟。 こちらも大学院まで進学して経営管理士の資格を習得後に全国家具屋チェーン店のニトリの総合職に就職もボートレーサーに転身。 史上初の大学院卒、社会人経由のボートレーサーとなりました。 最後に紹介をする若林麗は前職という話は少しずれてしまいますが、中央競馬の競馬学校(養成所)を合格。ボートレース養成所よりも更にシビアな151名の応募から競馬関係者でもない若林は5人の合格枠を勝ち取りました。 なお競馬学校時代の同期には2024年にG1を初制覇した西村淳也、若林と同じく競馬学校を中退も世界の舞台で活躍する木村和士などがいます。 しかし若林は競馬学校の過酷な環境に耐えられず中退。その後は大学に進学し卒業後は一般企業を予定していましたが、もう一度プロの世界に挑戦するべく弟の若林樹蘭(東京)と共にボートレーサー養成所を受験も弟の樹蘭だけが合格。 兄の麗はその後3期遅れの132期生として養成所に合格し2度目の養成所生活は無事に乗り切りボートレーサーとしての道を歩んでいます。 若林樹蘭も当初は騎手を志していましたが兄が夢半ばで諦めたことにショックを受けボートレーサーになることを検討。 その話を聞いて運動神経を活かせる仕事への夢も捨てきれていなかった若林麗もボートレーサーとしての道を考え兄弟で再び同じ夢を目指すことになりました。 異色なバックボーンは、競技への姿勢や勝負勘にも独自の影響を与えており、彼らの走りには他の選手とは違った魅力があります。 そんな「意外性」に注目することで、ボートレースの楽しみ方がさらに広がるはずです。 あなたはこの他に選手の意外な経歴をご存知ですか?ぜひコメント欄に選手や経歴を書いてもらえれば幸いです。 管理人
意外な経歴のボートレーサー
渡邉雄朗(4748)
支部 東京 期 112 経歴
谷川祐一(4594)・山崎郡(4760)
支部 滋賀 期 106 支部 大阪 期 112 経歴
管理人
野田昇吾(5259)
支部 埼玉 期 131 経歴
管理人
野田昇吾について更に知りたい
尾崎雄二(4695)
支部 長崎 期 110 経歴
管理人
尾崎雄二について更に知りたい
松本怜(5148)
支部 福岡 期 127 経歴
岡崎凪汰(5369)
支部 長崎 期 135 経歴
重冨勇哉(5027)
支部 山口 期 122 経歴
管理人
青木蓮(5220)
支部 埼玉 期 129 経歴
三浦敬太(4702)
支部 東京 期 110 経歴
管理人
若林麗(5285)
支部 東京 期 132 経歴
管理人
若林兄弟を更に知る
365日無料予想を公開!
意外な経歴を持つボートレーサー特集
まとめ管理人
管理人からのお願い
LINE登録
ブログランキング