佐賀支部の上瀧和則が引退を発表する
佐賀支部の60期生である上瀧和則が2024年8月8日に日本モーターボート競走会に引退届を提出したことが明らかとなった。
上瀧は1987年にデビューを果たすと2年後の1989年に年間最優秀新人選手に選出。全盛期にはSG戦線のトップに立ち植木通彦、松井繁、服部幸男、山崎智也らと平成初期から中盤の競艇界を盛り上げた。
2012年には選手会会長に就任。10年間に渡り選手目線で現場に立ちながら二足の草鞋で活躍し退任後は再び選手1本でA級レーサーとして活躍も2024年7月にフライング失格後は斡旋を全て削除していた。
Fを切ったら引退
上瀧は2024年6月中旬にボートレース平和島の斡旋された際に記者に対し「Fを切ったら選手を辞めると心に誓っている」と発表。
「勝てると思ってのFなら仕方ないけど関係ないところ(予選、一般戦)でのFを切るのは集中力が無くなった証拠」、「今はそういう気持ちで走っている」とあくまで引退を匂わせる程度に考えている人もいた発言だったのだが、それから約10日後の2024年7月3日のボートレース大村の一般戦(上瀧の語る関係ないところ)の初日1走目フライング失格になると即日で帰郷。
その後予定されていた2つの斡旋を削除し正式発表前からファンの間では引退についての噂が飛び交っていた。
これまでの活躍
近年こそ一般戦での活躍が中心となっている上瀧だったが85回に渡る数々の優勝には多くのドラマがあった。
そんな上瀧のこれまでの功績を振り返っていく。
デビューに至るまで
1968年に佐賀県佐賀市に産まれ10歳のころに父親に連れられてボートレース唐津へ行った際にレーサーの夢を志す。
166cmとボートレーサーとして身長が高く体重調整が難しかった中で60期生として養成所を卒業し1989年にデビュー。
「大村のゴッドファーザー」の愛称でも呼ばれたレジェンドレーサーの古川文雄が最初に採用をした弟子が上瀧であった。
4度のSG優勝
1996年に全日本選手権で初のSG王者に輝くと2年後1998年にはグランドチャンピオン決定戦で2度目のタイトル獲得。
その後しばらくビックタイトルとは遠ざかっていたが2004年にSG笹川賞、翌年には競艇王チャレンジカップの4回のSG王者に輝いた。
この他にも1994年の新鋭王座決定戦など17回のG1優勝を飾っており佐賀支部、そして日本を代表するボートレーサーとして長年に渡って活躍。
※大会の名称は当時を採用
非情のワイルドボーイ
上瀧のレーススタイルは現在のボートレース界では数少なくなった1コースをどんな手段を使ってでも奪いに行くいわゆる「イン屋」
現在のような内の枠番(1~3枠)がスロー、外の枠番(4枠~6枠)がアウトではなくピット離れを決めて容赦なくコースをどの枠番の選手も奪う時代であってもその個性が強すぎるスタイルと髭を生やし強面の特徴から「非情のワイルドボーイ」という愛称がついた。
2001年にボートレース唐津にて行われた「SG グランドチャンピオン決定戦」はその言葉を最も象徴するシーンといえるだろう。
このレースでは女子レーサーとして史上初めてSGの優勝戦に進出をした寺田千恵が1号艇を獲得も地元佐賀支部の上瀧が1コースを奪おうとするところへ寺田が抵抗。結果的に寺田は80m付近からのスタートとなり敗退をしたのだが寺田は後に「女に勝たせてたまるかという雰囲気をひしひしと感じましたね。特に唐津でしたから佐賀支部の上瀧さんは何があっても私に勝たせるわけにはいきませんよ」と潰しに来たのが伝わったと振り返っている。
上瀧の潰し当然の進入に抵抗をするためだったとはいえ寺田は当時のルールでも悪質な進入を行った上にエンジンがエンストしてしまいレース後には審判係に叱られている。
引き継がれる意思
2000年代後半には佐賀支部の若手レーサーが前付けを連発し「上瀧派」とファンの一部で称された。
上瀧の「6号艇の時、じっとしていては勝ち目がない。コース取りに動いた方が面白いでしょう」という考え方に影響を受けたことが理由となっている。
その中でも特に上瀧の考えを引き継ぎイン屋としての地位を今でも確立しているのがSG優勝を果たした深川真二。
ファンの間でも伝説となっているボートレース江戸川で前付けを行うほどの強いこだわりを持っているが上瀧とは師弟関係ではなく同じプロペラグループの先輩、後輩の関係。
その他にも吉田光、松江秀徳などプロペラグループ、上瀧と師弟関係を結ぶ選手の選手の中には外枠であれば前付けに動くスタイルを現在でも継続しており2022年に電撃引退をした三井所尊春のイン屋転向は師匠である上瀧の進言だった(その後は捲り屋に転向)
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息子もボートの道へ
息子の上瀧絢也も126期生として2020年にデビュー。
フライングの多さから2世レーサーとして悪い意味で注目を集めながら初勝利まで2年を要した。
日本大学在学中にボートレーサーとしてデビューをした影響で7年生まで留年を続け中退をしている。
厳しい師弟関係
持ちペラ制度全盛期に地元の後輩レーサー達と師弟関係を結んできた上瀧。
今でこそ峰竜太を筆頭に選手間の壁が無いイメージが強い佐賀支部だがこの時代は当時でも「他の支部がうらやましい」と言われるほど異質な師弟関係だったらしく弟子というよりも付き人同然の扱いが行われていた(この時代だから許されたであろう上瀧からの厳しい指導も多かった)
その一方で昭和の九州男児らしく漢気と面倒見は良くフライング休み中の後輩選手を海外旅行に連れて行きその費用を全て自分で受け持ったエピソードは今でも多くのファンに知れ渡っており峰竜太も引退をする上瀧の思い出を聞かれ「いろんな人をついてこさせるような魅力があふれる人でした」とその存在の大きさを語っておりG1初優勝時には緊張を取るために直前に本気でビンタをされたことを明かした。
ファンと大喧嘩の土下座騒動
2006年1月にボートレース唐津にて行われた正月開催の初日ドリーム戦インタビューで壇上に登場した上瀧と長溝に対し酔っぱらった観客がヤジを飛ばすとこれに激怒。
酔っぱらった観客もライターや手に持っていたペットボトルを投げつける大騒動に発展してしまいドリーム戦の公開インタビューが中止となった。
次節に同じくボートレース唐津にて開催された「G1 新鋭王座決定戦」の初日オープニングセレモニーにて挨拶を任された弟子の三井所は同じプロペラグループ、そして師匠の上瀧、長溝の態度に対して何か思うことがあったのか涙ながらに土下座をしている。
戦う選手会長
レースの話や佐賀支部のエピソードをいくつか話してきたが上瀧は2012年から2022年の10年間に渡り選手会会長としても活躍。
引退した選手が務める選手会会長の職を現役のA1級選手が務めるという当時では異例の出来事も来場し舟券を購入するファン、開催を支える人、そして現場で走る選手たちが良い環境で走れるように常に考え「会長職の減給」、「日本モーターボート会の公益法人化」、「持ちペラ制度の廃止の決定」といった改革を行った。
2017年には公益のために1500万円を選手会として寄付したことが評価され紺綬褒章が授与され「我々はお金を出すだけでなく、災害のつど、被災地へ出かけてボランティア活動を続けています。これからも毎年こうした寄付を続けていきたい」と会長という立場での言葉を述べている。
しかし上瀧が会長として最も後に影響を与えたのは「戦う選手会長」という考えをボートレース業界に確立させたことだろう。
会長就任後は表舞台から離れ数年に1回レースに参加を続けていたが、2020年より「選手会長が現場に立たないことがおかしい」という考えから本格的な選手復帰を果たした。選手として水面に立つことで選手からの意見を聞くのはもちろん選手側が一方的に有利になる考えに対して主催者側の意見を伝えることもあった。
そして2021年に「現役の選手会長による優勝」という史上初の記録を打ち立てる。
2022年に会長職を引き継いだ瓜生正義も上瀧の考えを引き継いでおり2024年3月に会長職就任後初の優勝を達成。その10日後にはボートレース住之江にて開催された「G1 大閣賞競走」にて現役の選手会長としては初となるG2以上のグレードレース優勝を達成している。
通算成績・最終レース
優勝85回(SG4回 G1 18回)
2024年7月3日 ボートレース大村「BTSオラレ志布志 開設15年記念」初日 第8R(F)
高配当情報
無料予想
日時 | 2024年 09月10日 |
レース数 | 徳山11R |
結果 | 4-1-6 |
倍率 | 154.7倍 |
低額ポイント予想
日時 | 2024年 09月09日 |
レース数 | 芦屋12R |
結果 | 4-1-2 |
倍率 | 127.2倍 |
まとめ
噂として聞こえてくる話も含め賛否両論の分れる選手である上瀧だが「男に二言は無し」、「有言実行」で艇界を去った。
上瀧がこの業界にもたらした「選手会長は選手のトップに立って引っ張らないといけない」という考えを今後も業界に絶やすことなく続けてほしいと私は思うばかりである。
上瀧和則選手、長きに渡る現役生活お疲れさまでした。
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